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西館ツアーの見どころ

お手持ちのスマートフォンでNational Gallery of Artの学芸員による解説を聞きながら、さまざまな作品をご鑑賞いただけます。ご自身のペースそしてお好きな順序で、多くの作品の解説をお楽しみください。

作品の解説をお聞きになるには、下の枠に解説地点の番号を入力し、実行(go)を選択、解説が表示されたら再生(play)ボタンを押してください。音声ガイドをお聞きになる際は、周りの方の邪魔にならないようヘッドフォンをお使いください。

  • Stop 880

    James McNeill Whistler, Symphony in White, No. 1: The White Girl, 1861-1863, 1872
    Symphony in White, No. 1: The White Girl

    この作品でジェームズ・マクニール・ホイッスラーは、様々な色調の白を使って空間と形状の興味深い関係性を描き出しています。使用する色を制限しコントラストを抑え、遠近感をゆがめることにより、彼は対象を平面化し抽象的な模様として強調することに成功しています。この印象的な構図上の手法には、国際貿易が盛んになるにつれ当時パリで広く知られるようになった日本の浮世絵の影響が見られます。ホイッスラーの興味は、モデルを務めた愛人のジョアンナ・ヘファナンの姿を忠実にとらえることよりも、抽象的なデザインをつくり出すことにあったのです。彼の純粋に美を追求する態度と「アートのためのアート」の創造を擁護する極端な姿勢は、モダニズムのスローガンとなったのです。

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    NARRATOR
    『Symphony in White, No. 1, the White Girl 白衣の少女、白のシンフォニー
    No.1』は、アメリカに生まれ、外国で育った画家、ジェームズ・マクニー
    ル・ホイッスラーによって描かれました。この作品は1863 年、パリで初めて公
    開された際に、大きな論争を引き起こしました。モデルとなったジョアンナ・ヘ
    ファナンはホイッスラーの愛人でしたが、大ひんしゅくを買ったのはむしろ、絵
    画に対する革新的なアプローチでした。当時の批評家は、この絵の主題が低俗で、
    技術的にも稚拙であり、奇をてらっただけの、わけのわからない、未完成な作品
    だと酷評しました。また、イギリスの評論家、ジョン・ラスキンは、ホイッスラ
    ーのスタイルは、人々の顔面にバケツの絵の具を撒き散らしているようなものだ、
    とまで言いました。その後、ホイッスラーはラスキンを名誉毀損で訴え勝訴しま
    すが、弁護士料が嵩み、自らは破産してしまいます。
    当時、世間では、芸術作品は題材がはっきりしており、倫理的に正しいこと、あ
    るいは文学的テーマを表現したものでなければならない、と考えられていました。
    しかし、ホイッスラーは次のように宣言しています。

    WHISTLER (ACTOR)
    「芸術とは、唯一無二の存在であり、人々の目や耳が持つ美的感覚に直
    接訴えるものでなければならない。その際、芸術とはまったく関係のな
    い感情、すなわち献身、哀れみ、愛情、愛国心といったものと混同され
    てはならない。」

    NARRATOR
    キュレーター− のニコライ・シコブスキー・ジュニアです。

    NICOLAI CIKOVSKI, JR.
    ホイッスラーは、作品に題名をつけるとき、よく音楽用語を使いました。例えば、
    シンフォニー、ノクターンといった単語です。その目的は明らかです。彼は、音
    楽で可能なことを、絵画において視覚的に実現しようとしたのです。つまり、物
    語を語ったり、対象物を描くことに頼らず、絵というのは、ただ「描く」という
    ことであり、色である、この作品で言えば、白ということになります。白い服を
    着た人物が、白い背景を背にして立っています。それにもかかわらず、この作品
    の白という色には目を見張るものがあります。冷たい感じの白、青味がかった白、
    暖色系の白、黄色っぽい白、オレンジがかった白など、実に数多くの白がありま
    す。
    白は、ホイッスラーが絵に自ら課した制限であり、その結果、見るものの視線は、
    多くの意味でさらに強く、この絵のさまざまなトーンの白に惹きつけられます。
    この作品ではまた、質感の描写においても彼の卓越性が見られます。ガウンや、
    ブラウスの袖、背後のカーテンのみごとなドレープ、そしてすばらしく多様な筆
    使い。ホイッスラーはさまざまな要素を採り入れることによって、ともすれば非
    常に単調な作品を、芸術的傑作へと高めています。

    NARRATOR
    ホイッスラーは作品の展示方法にも独自の考えを持っていました。そのため、額
    縁を自分でデザインし、色をつけることも珍しくありませんでした。この額縁も
    その一つです。19 世紀後半の多くの画家同様、ホイッスラーもまた、日本美術
    の影響を受けていました。彼は、日本様式的な蝶を自分のトレードマークとして
    使い、額縁の上に第二の署名としてしるしたのです。

  • Stop 874

    Winslow Homer, Breezing Up (A Fair Wind), 1873-1876
    Breezing Up (A Fair Wind)

    1866~7年のヨーロッパへの長期滞在旅行の後、ギュスターヴ・クールベ、エドゥアール・マネ、クロード・モネなど同時代のフランスの画家たちの影響を受けたウィンスロー・ホーマーは、屋外での作品制作に興味を持ちました。アメリカへ帰国後、ホーマーはスポーツやレジャーの生き生きとした場面を作品に描き、その温かみがあり魅力的な作風は南北戦争後の社会にみられた素朴で無垢なアメリカへの郷愁にふさわしいものでした。合衆国建国100周年の年に制作されたこの《風が強まる(順風)》には当時のアメリカの生活が描かれ、これは最も有名で最も愛された19世紀の絵画作品の一つです。

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    NARRATOR
    Curator Nicolai Cikovski, Jr.

    NICOLAI CIKOVSKI, JR.
    ナショナル・ギャラリーの最も貴重な秘蔵品の一つがこの作品です。この絵画は
    『Breezing Up() 』と呼ばれています。その発表当初、この絵は大人気を博し
    ました。それは1876 年、つまりアメリカ建国100 周年の年でした。当時のアメ
    リカ人は、この国の過去同様にその未来についても、鋭い関心を寄せていました。
    ホーマーの絵が、特別な意味をもって迎えられた背景には、建国100 周年という
    時代背景がありました。ここに描かれている少年たちは、単に前進するだけでな
    く、未来に向かって進んでいるのです。特にヨット後方にいる少年について当時
    の批評家たちは、大きな期待を胸に将来を見つめていると評しました。

    NARRATOR
    この作品は、見かけよりもずっと複雑です。例えば、ホーマーはヨットを絵の中
    心から、かなり左の方にずらして描いているため、まるで絵の中をヨットが走り
    抜けているようです。また、画面の前方に描かれたヨットは、右後方の小さなヨ
    ットによってバランスが保たれています。大、小ならびに遠近の物体を織りまぜ
    た構図では、1 対1 の対照の中にバランス感覚が取り込まれています。これは日
    本美術でもよく使われた手法です。この作品が描かれた1870 年代は、欧米の芸
    術家の間で日本美術が流行していました。ここでは、ホーマーの作品にその影響
    を見ることができます。
    キュレーターのニコライ・シコブスキー・ジュニアです。

    NICOLAI CIKOVSKI, JR.
    ホーマーはボストン生まれで、実家はニューイングランド地方の旧家でした。画
    家としての技術はほとんど独学で身に付けましたが、もともとすばらしい芸術的
    素養と敏しょう性をあわせ持っていました。この作品の日本的な部分は、ホーマ
    ーが日本で自ら体験したものではなく、同時代の多くの画家がそうしたように、
    日本の版画作品を見て吸収したものです。当時、欧米ではたくさんの日本の版画
    作品が出回り、収集されていたのです。私たちは、ホーマーを典型的なアメリカ
    人画家と考えがちですが、この絵を見ても、また、彼の画家としての経歴からも、
    枠にはまらない、もっと偉大な芸術家であったことがうかがえます。

  • Stop 850

    Augustus Saint-Gaudens, The Shaw 54th Regiment Memorial, 1900
    The Shaw 54th Regiment Memorial

    ≪ショー大佐の記念碑≫は、最も優れた19世紀のアメリカ彫刻作品と評されています。当館の収蔵品は、現在ボストンに所在するオリジナルのブロンズの記念碑から鋳造されたものです。作品は北軍側で南北戦争に参戦した最古のアフリカ系アメリカ人部隊の一つである、マサチューセッツ第54連隊の功績を称え制作されました。この部隊はエイブラハム・リンカーンによる1863年1月1日の奴隷解放宣言後間もなく編成されました。兵士たちは、自身の息子も隊員となった大演説家のフレデリック・ダグラスなどの指導者たちに触発され、多くの州から集まってきたのです。部隊の指揮官は、白人の奴隷解放論者を父に持つハーバード大学卒で当時25才のロバート・グルード・ショーでした。

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    EARL POWELL
    『Shaw Memorial(ショー大佐の記念碑)』は、19 世紀のアメリカ彫刻の最高傑
    作と言われています。彫刻のモデルとなったのは、ロバート・グールド・ショー
    大佐率いるマサチューセッツ第54 連隊で、南北戦争で活躍した、アメリカで最
    初のアフリカ系アメリカ人部隊です。1863 年、サウスカロライナ州チャールス
    トン近くで起きたフォート・ワグナーの戦いでは、600 人の兵士が果敢に戦いま
    した。戦闘では、ショー大佐を含め約半数が戦死しました。
    この勇敢な兵士たちを称えるため、ボストンの有志が集まり、ニューヨークの彫
    刻家オーガスタス・サンゴーダンに、ブロンズの記念像の制作を依頼しました。
    完成した彫刻は1897 年、ボストンコモンに捧げられました。いまご覧になって
    いるのは、サンゴーダンによる実物大の石膏レプリカです。これはニューハンプ
    シャー州コーニッシュにあるサンゴーダン国立史跡より、当ギャラリーに長期貸
    し出しされているものです。本作品がここに設置されたのは1997 年9 月のこと
    で、除幕式では、元統合参謀本部長のコリン・パウエル将軍が式辞を述べました。
    アフリカ系アメリカ人として初めて軍隊の最高位まで上り詰めたパウエル将軍は、
    アメリカ軍初のアフリカ系アメリカ人部隊に捧げられた記念像について、雄弁に
    語っています。
    これはそのスピーチの一部です。

    GENERAL COLIN POWELL
    私は、サンゴーダンのこのブロンズ彫刻作品よりほかに、感銘を与える作品があ
    るでしょうか? 誇り高く、若さにあふれ、そして宿命を背負ったショー大佐と
    黒人兵士たち。その姿は鮮烈です。顔を上げ、ライフルを肩にかつぎ、不屈の精
    神をみなぎらせて南に向かう、力強い足取り。これは1863 年5 月28 日、この部
    隊が勝利を目指し、ボストン州会議事堂前を行進したときの光景です。
    しかし、この記念像の真髄を理解するためには、1863 年以前にさかのぼらなけ
    ればなりません。あるいは、我が国が誕生した1776 年まで戻る必要があるかも
    しれません。また独立宣言を振り返る必要もあるでしょう。独立宣言では、すべ
    ての人間は平等であり、そして真実は自明であり、他人に譲り渡すことのできな
    い権利、生命、自由、幸福を追求する権利が与えられていると謳われています。
    さらに、この独立宣言には、政府とはこのような権利を市民に保証するための機
    関であるとも銘記されています。しかしながら、もう一つの自明の理として、特
    定のグループの国民が、その対象から除外されていたのも事実です。もし肌の色
    が黒かったなら、こうした権利は保証されなかったのです。
    その数年後にできた合衆国憲法にも、やはり同じ内容が盛り込まれていました。
    すなわち、神の祝福を受けた国家において、肌の色が黒い人々は、祝福の対象外
    だったのです。奴隷制度が国の目的のこうした矛盾を正当化することができたの
    も、黒人奴隷は人間と見なされていなかったからです。黒人は道具でした。教育
    も、文化も、過去も歴史も必要としない道具。家族も、よりよい暮らしのための
    権利や誇りや目的意識も必要としない道具。道具は子孫への継承さえ不必要、家
    族も不要。分散させ、子供は売却する。
    こうした非人間的な虐待、特定の国民集団に対する蔑視には、本当の恐怖、奴隷
    制度の罪深さがひそんでいました。神に祝福された国家であるはずのアメリカは、
    こうした矛盾にいつまでも耐え続けることはできませんでした。
    長い歳月を経て明らかになったのは、奴隷制度を完全に葬り去るには大規模な戦
    闘が必要だということでした。その戦闘が、1861 年に勃発した南北戦争でした。
    当時、黒人には何の機会も与えられていませんでした。彼らに能力があることを
    示す機会、肌の色以外は白人と同じであり、白人と同じ赤い血が流れていること
    を示す機会はすべて否定されていたのです。独立戦争や1812 年戦争、その他の
    戦争では、黒人も従軍が認められていました。しかし大きな危機が去ると、黒人
    は軍隊から除外され、元の場所に追い返されました。そしていま、この大規模な
    闘争が始まろうとしています。奴隷制度を永遠に葬り去るための闘争です。そし
    てこの時期になるとようやく、その戦いに黒人も含まれるべきだということが明
    らかになってきました。
    リンカーン大統領は当初、黒人の従軍に消極的でした。それはあまりに急進的な
    考えだったからです。しかし1863 年までに戦死者の数は膨大にふくれあがり、
    兵力の補強が必要となると、フレデリック・ダグラスを始めとする廃止論者はリ
    ンカーンに圧力をかけました。一方、南部も同様の問題を抱えていました。南部
    のカッブ将軍は、ジェファーソン・デイビスという男が南部のために黒人部隊を
    組織しているという噂を耳にするやいなや、それを止めるようデイビスに忠告し
    たのです。将軍いわく、「それだけはだめだ。他の目的なら、調理でも、穴掘り
    でも、種まきでも、黒人を好きなように使うがいい。しかし、兵士として使って
    はならない。なぜなら、もし彼らが兵士になって白人と同じ戦場に立ち、闘うこ
    とが可能となれば、奴隷制度の理論そのものが成り立たなくなるからだ。そうな
    れば南部の存続は不可能だ。」
    フレデリック・ダグラスも、同じ問題を察知していました。しかし彼は、その問
    題を巧みに利用し、リンカーンや他の政治家に宣言しました。「黒人に青い制服
    を与え、この合衆国という国の一員と認め、真鍮のベルトを与え、帽子、ライフ
    ル、ピストルを与え、彼を一人の兵士として戦場に送り込み、祖国統一のために
    戦わせてみるがいい。そうすれば、彼らの国民としての権利を否定できる権威な
    ど、この世のどこにも存在しなくなる」。軍隊は、黒人と白人が兄弟のように同
    等に扱われる、アメリカで唯一の組織だったのです。
    ダグラスに奨励されたアメリカ政府が募集を開始すると、まず、マサチューセッ
    ツの黒人たちが立ち上がりました。何百人もの黒人が志願し、その数があまりに
    多かったので、第54 連隊はすぐに定員となり、第55 連隊を組織しなければなら
    なくなったほどです。しかし、1863 年5 月28 日、栄光に向かって行進したのは
    第54 連隊でした。彼らはこの彫刻作品のように、州会議事堂のアンドリュー知
    事の前を通り過ぎ、南部に向かって、死に向かって、行進したのです。その7 週
    間後に起きたのが、フォート・ワグナーの戦いです。黒人部隊を率いたショー大
    佐は、塹壕の中で戦死しました。600 人中、死傷者の数は281 人に達しました。
    しかし彼らは彼らの力を、その可能性を我々に示してくれたのです。
    南北戦争が終わるまでには、従軍した黒人の数はおよそ20 万人以上に達しまし
    た。彼らの活躍によってアメリカの統一は守られ、我々は平等な社会に向けての
    第一歩を踏み出したのです。しかし、修正条項の第13 条、第14 条、第15 条を
    経ても、黒人兵士たちの兵役によってもたらされたはずの自由を、黒人たちは享
    受することができませんでした。それが実現するには、さらに100 年、いや、
    120 年、130 年を要したのです。
    さて、現在に目を向けてみましょう。社会の統合という点では、私たちはこれま
    でにも大きな進歩を見てきました。また、この国のために黒人にどんな可能性が
    あるのか、大いに認められるようになりました。私はいま、これら黒人兵士たち
    の直系の子孫の一人として、ここに立っています。私がアメリカ陸軍の最高峰で
    ある統合参謀本部長に就任することができたのも、この第54 連隊の兵士たちの
    おかげです。さらに、独立戦争に参加した黒人たちとのつながりも、決して忘れ
    ることはありません。
    この作品は私にとって、長年、勇気を与えてくれる力の源でした。この素晴らし
    い彫刻作品が首都に飾られることで、白人も黒人も、多くのアメリカ人が、私と
    同じ感銘を受けることを望んでやみません。この記念像は決して忘れることのな
    い過去を、そして私たちがいかに多くのことを達成したかを思い出させてくれま
    す。しかし、それと同時に、我が建国の父が理想としたような、より完全な、最
    も完璧な統一国家となる日まで、私たちはいましばらく闘争を続けなければなり
    ません。これは栄光の瞬間であり、犠牲の瞬間です。これは我が国の歴史の一ペ
    ージであり、その設置場所として我らが首都ワシントンほどふさわしい所はあり
    ません。このすばらしい芸術作品は、老いも若きもすべてのアメリカ人に、そし
    て世界中からやってくるすべての人々に、感銘を与えることでしょう。そして今
    朝、この除幕式に参加することができ、大変光栄に思います。

  • Stop 801

    Thomas Cole, The Voyage of Life: Youth, 1842
    The Voyage of Life: Youth

    トーマス・コールのこの有名な4部作で描かれているのは、主人公である原型的な英雄がたどる、生命という川の旅です。旅人は、若者の大志を象徴する空中に浮かぶ城を果敢に目指しています。ようやく目的地に近づいた彼を、いつにも増して激しい濁流が自然の怒りや邪悪な悪魔、そして自己不信に向けて、容赦なく押し流します 。旅を暗い結末から救い出すことができるのは祈りだけであると、この作品では説いています。 コールが描いたこの困難な旅は、国家として青年期にあたるアメリカを擬人化したものとも解釈できます。コールは、当時アメリカ社会をおおっていた熱狂的な「明白なる使命」の追求に対し、際限のない西部開拓と産業革命はいずれ人と自然の両方に悲劇をもたらすという、警告を発していたのかもしれません。

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    NICOLAI CIKOVSKI, JR
    トーマス・コールは、ハドソン・リバー派の創始者として最もよく知られていま
    す。19 世紀半ばに現れた画家たちは、アメリカの壮大な自然を題材にした風景
    画を手がけました。いまご覧の『The Voyage of Life 人生の旅』と名付けられ
    たシリーズはコールの代表作で、生前最も人気のあった作品でした。この作品に
    は2 つのバージョンがあり、これは2 つめのバージョンです。
    コールはかつて、「草木を描くだけの画家にはなりたくない」と語りました。念
    頭にあったのは、より崇高で、より真摯な形の芸術でした。つまり、文学や神話、
    あるいは聖書の中に見られる高尚なテーマを歴史的に伝えるための道具として、
    風景画を利用したのです。現在の私たちには気恥ずかしくなるような野心ですが、
    コールは真剣に夢を抱いていました。本作品の前に彼が完成させたのは、『The
    Course of Empire 帝国の推移』と題する一連の作品群でした。そして彼はこの
    『The Voyage of Life 人生の旅 』でも、あまりに壮大で、奥が深く、とても一
    枚のキャンバスには収まりきれない物語を題材にしています。そこに描かれてい
    るのは、人生という名の旅をするキリスト教徒です。少年期に始まり、青年期、
    壮年期を経て、やがて老年期を迎える人間の姿が、壮麗かつ寓意的な手法で描か
    れています。
    私が特に好きなのは、三点目の『壮年期』です。というのも、ここではコール自
    身の姿が、みごとに、かつ辛らつに表現されているからです。この作品を描いた
    ときは、コール自身も壮年期にありました。空に浮かぶ黒い雲は誘惑で、人生の
    苦境にある旅人にとって誘惑とは、自殺、酒、殺人のことです。唯一の希望は、
    自分自身の強さではなく、天にあります。雲の上では守りの天使が、旅人に気づ
    かれることなく、穏やかな表情で、旅の行方を見守ってくれています。舵を失っ
    た船は、もはや操縦不能です。船は今まさに、急流に飲み込まれようとしていま
    す。両岸には、コールの言葉を借りれば、ごつごつして、荒涼とした風景が広が
    っています。旅人だけでなく、舳先(へさき)を飾る天使の像まで、この状況を
    案じているようです。もう時間がありません。舳先の天使像は、自分が手にした
    砂時計の最後のひと粒が、いつ落ちるかと気を揉んでいます。天使をとりまくレ
    リーフたちも、これから起る事態に脅えています。
    コールは、これら一つ一つの作品について、正確で詳しい解説を書き残していま
    す。解説はそれぞれの作品の隣に表示されていますので、どうぞご覧ください。
    解説を聞きながら絵を見たいという方は、作品群の最後の『Old Age』にお進み
    ください。ここは旅の終わりであり、波ひとつない水面に船が浮かんでいます。

    NICOLAI CIKOVSKI, JR
    いま、みなさんは『Old Age 老年期』の絵の前にいらっしゃることと思います。

    ACTOR (MALE)
    不吉な雲が、真夜中の広大な海の上にたれこめている。嵐で破損した船
    が、海原(うなばら)をゆっくりとすべっていく。今や老人となった旅
    人は、雲のすき間から放たれる神々しい光を見上げている。その光の中
    を舞い降りる天使は、旅人を、不老不死の国へといざなっているかのよ
    うだ。

    NICOLAI CIKOVSKI, JR
    残念ながら、コールは長寿を全うすることはありませんでした。47 才という若
    すぎる死は、全米を悲しみで包みました。

    NARRATOR
    コールは、この作品のシリーズを、1841 年の冬から翌年の春にかけて、ローマ
    に行く旅の途中で描き上げています。アメリカに戻ると、作品はボストンとニュ
    ーヨークで有料で展示会に出品されました。その収益は大富豪のジョージ・ショ
    ーンバーガーにとっては期待はずれだったため、ショーンバーガーはこれらの作
    品を、51 室もあるオハイオ州シンシナティの大邸宅に飾ることにしました。し
    かしその後、大邸宅はサナトリウムとなり、続いて病院となったために、作品は
    一世紀近くも忘れられた存在となりました。
    1962 年、この病院の礼拝堂で、作品が再発見されました。それに続き、オリジ
    ナルの額縁も、古いペンキが塗りたくられた老人ホームの中から出てきました。
    額縁はやがて修復され、キャンバスに戻されます。おそらくコール自身によって
    デザインされたものと思われます。額のデザインは作品に描写されたキリスト教
    の象徴を補足しています。例えば、ぶどうは、聖餐(せいさん)で使われるぶど
    う酒に関係しています。キリスト教では、ぶどう酒がイエス・キリストの血を象
    徴すると信じられているのです。さらに、神のぶどう畑で働く人間の労働も示唆
    しています。花や果物が示すのは、繁殖力と命です。一年中枯れないツタの葉は、
    永遠の命を象徴しています。
    シリーズの最初のバージョンは、1839 年、ニューヨークの銀行家のために描か
    れました。コールは、その作品が一般の人々の目にふれることは二度となくなる
    のではと心配しましたが、のちに、作品がニューヨークで展示された時には、当
    時のニューヨークの人口の半分にあたる50 万人が詰めかけたと伝えられていま
    す。さらにその後、1 万6000 枚の複製が印刷、販売されましたが、これは19 世
    紀初頭に作られたジョージ・ワシントンの彫刻に匹敵する人気でした。

  • Stop 820

    John Singleton Copley, Watson and the Shark, 1778
    Watson and the Shark

    1778年にロイヤル・アカデミーで展示されたこの《ワトソンとサメ》は、センセーションを巻き起こしました。 その理由の一つは、このような陰惨な題材を取り上げた絵が展示されたことはこれまでなかったからです。1749年に、14才のブルック・ワトソンはハバナ港で泳いでいる時サメに襲われました。この衝撃的な体験をとらえたジョン・シングルトン・コプリーのこの絵には、急いで少年を救出しようとする9人の船乗りと、失った右足から流れ出た血で赤く染まった海が描かれています。救出者たちの心配そうな表情と行動からは、もがき苦しむ少年への想いと次第に募る自らの危険への懸念が現れています。奇跡的に救出されたワトソンは、その後事業家、そして政治家として成功しました。

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    NARRATOR
    ジョン・シングルトン・コプリーによるこの戯曲的な絵は、ナショナル・ギャラ
    リーの収蔵品の中で、最も愛されている作品の一つです。
    キュレーターのニコライ・シコブスキー・ジュニアです。

    NICOLAI CIKOVSKI, JR.
    『Watson and the Shark ワトソンとさめ』は、非常に複雑で、豊かな感情をた
    たえた力強い作品です。この絵は、ブルック・ワトソンの少年時代のエピソード
    がモチーフとなっています。ワトソンは当時14 才。大きなサメを、おびえた表
    情で見つめています。そして絵を見ている私たちも、ワトソンと同じ気分となっ
    て、サメの口の中をのぞき込んでしまいます。
    ワトソンは、ハバナ港に出入りする商船の船乗りでした。ある日、ハバナ港で泳
    いでいたところ、巨大で獰猛(どうもう)なサメに襲われます。サメはワトソン
    の右足の半分を喰いちぎりました。そして苦しみもがくワトソンを、仲間の船乗
    りたちが助けに来ます。仲間はサメを殺し、ワトソンを救出します。これが、コ
    プリーが描写した物語です。コプリーは、晩年を迎えたワトソンの依頼で、この
    絵を描きました。しかし、ふつう誰がこのような残酷な内容の絵をわざわざ依頼
    するでしょうか?
    考えられるのは、この事故をワトソンが人生を通じでどのように受け止めていた
    か、という点です。ワトソンは少年時代にサメに襲われ、想像を絶するようなト
    ラウマに苦しみました。しかし、それを克服し、生き延びたばかりでなく、困難
    を乗り越え、ビジネスマンとして大成功を収め、ロンドン市長にまでなったので
    す。つまり、困難にめげずに人生で成功したという、サクセスストーリーが、こ
    の絵に込められた教訓であると言えます。しかし、それは芸術という手段で、一
    点の絵画作品として再現されたために、当時の人々は、実に生々しく残酷なエピ
    ソードを、何か別の場面として鑑賞することができたのです。船首に立ち、竿を
    使って鮫を退治しようとしている人物は、大天使ミカエルが、悪魔を天国から追
    い出そうとしている絵から借用したものです。そうした意味では、これは宗教的
    な作品だとも言えます。そしてもちろん、これは人の命が救われた、救済の絵で
    もあります。

    NARRATOR
    記録によると、ワトソンはその遺言により、この絵をロンドンにある王立キリス
    ト教病院に寄付したことになっています。病院で、この絵は、悲惨な事故に会い
    ながらもそれを生き延び、富と名声を獲得した人間の手本として掲げられました。
    この病院は孤児院の施設もかねていましたが、ワトソン自身も実はそこで育ちま
    した。

  • Stop 701

    John Constable, Wivenhoe Park, Essex, 1816
    Wivenhoe Park, Essex

    まるで写真のように鮮明なこの風景画からは、心地よい安らぎと調和が感じられます。キャンバスの大きな部分を占める明るい日なたと涼しげな日陰、長く続く垣根、そして木々や牧草地や川の絶妙なバランスは、画家コンスタブルが現実の風景をもとに創造力を発揮して描いたことを示しています。動物や鳥、人々などの描き方に見られるコンスタブルの正確な筆使いからは、彼がこうした細部にこだわっていたことが分かります。この地方の田園風景に対する深い愛着は、コンスタブル作品に一貫してみられる特徴で、彼の下書きやスケッチからは、コンスタブルが故郷の風景にみられる絵画的要素に完全に没頭していたことがうかがえます。

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    NARRATOR
    1816 年、イギリスの画家、ジョン・コンスタブルは、エセックスにあるワイヴ
    ェンホ・パークの広大な風景を描きました。そこは彼が家族ぐるみのつき合いを
    していたリボウ将軍の私有地です。コンスタブルが「ナチュラル・ペインティン
    グ」と呼んだ手法を用いました。絵を見ている人に、あたかもその風景の中にい
    るように思わせるのが、コンスタブルのねらいだったのです。光と影の微妙なフ
    ィーリングを捕らえるために、しばしば屋外にキャンバスを持ち出し、不透明な
    油絵の具を、ごく僅かずつ、正確に塗りつけていったのです。コンスタブルはこ
    の絵を描くために将軍の敷地内に住み、その間、婚約者に送った手紙の中で、次
    のように語っています。「僕はいま、公園の中に住んでいる。リボウ夫人からは、
    非社交的だと言われているけどね」。職業画家であったコンスタブルは、パトロ
    ンを喜ばせるためなら何でもしました。そのため、作業の途中でも注文されれば
    キャンバスを継ぎ足すことさえありました。
    キュレーターのフランクリン・ケリーです。

    FRANKLIN KELLY
    コンスタブルが妻に宛てた手紙には、いったんこの絵を描き始めたものの、友人
    家族が要求するものをすべて描き入れるにはキャンバスが小さすぎることに気が
    ついた、ということが書かれていました。そこで彼は実際、絵の両側に3 インチ
    ずつ、キャンバスを継ぎ足したのです。その際、縫い目ができるだけ目立たない
    ように気をつけました。そしてキャンバスの左側には、牛を一頭追加しています。
    上下に走る縫い目から、見る人の視線をそらすためです。そして右の方には、二
    人の男がボートに乗って魚捕りの網を張っている光景を描き足しています。これ
    はこの絵の中でも最も美しい描写の一つとなっています。
    自然で現実的な作品は、これまでも高く評価されてきました。ところが、もしこ
    の同じ場所で写真を撮って、比べてみたら、この風景がいかに現実とかけ離れて
    いるか、驚かれることでしょう。作品はあたかも、広角レンズを使用しながら、
    まったく歪みのない写真を撮るようなものなのです。すべてが鮮明なのです。全
    体として見れば、まったく無理のない遠近感ですが、それは、ただ単にそこに立
    っているだけで得られるものではありません。というのも、それはコンスタブル
    による入念な調整の結果だからです。彼は樹木の位置を変え、影の色を濃くし、
    水面の反射を強調しています。その結果、きわめてリアルな風景画ができあがっ
    たわけですが、それは必ずしも現実に存在する風景ではありません。

  • Stop 702

    Joseph Mallord William Turner, Keelmen Heaving in Coals by Moonlight, 1835
    Keelmen Heaving in Coals by Moonlight

    雲間から差し込むまばゆい月明かりが空と海を照らしています。海面に映る光は絵の具を厚く塗り重ねて描かれ、夜空の月の光のグラデーションが作り出す力強い渦巻きに対抗しているようです。右手では大型貨物船への石炭の積み替え作業が進行中で、オレンジと白のたいまつの明かりに黒く浮かび上がる、イギリス・ニューカッスル地方のキールマンと呼ばれる人夫と、川を下り石炭を運んできた暗い色の平底船が見えます。左側の船の背後には、遠くの工場群と船が灰色の絵の具とわずかな細い線で表現されています。

    Read full audio transcript

    FRANKLIN KELLY
    私は、ナショナル・ギャラリーでアメリカおよびイギリス絵画部門のキュレータ
    ーをつとめるフランクリン・ケリーです。当ギャラリーには数多くの貴重な芸術
    作品が収蔵されていますが、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの作品
    群もその一つす。母国イギリス以外では、最大級の、そして最も充実したコレク
    ションとなっています。中でも最高傑作の一つが、この『Keelmen Heaving in
    the Coals by Moonlight 月光にあおりたつキールメン』と題された作品で、
    1835 年に制作されたものです。

    NARRATOR
    ここに描かれているのは、イギリス北部、石炭の産地として有名なニューキャッ
    スル地方を流れるタイン川です。画面右手に見えるのはこの地方で「キール」と
    呼ばれる平底船で、「キールメン」と呼ばれる人夫たちが石炭を大型の貨物船に
    積み換えているところです。

    FRANKLIN KELLY
    ターナーがここで題材としているのは、日常のありふれた光景ですが、すべては
    月明かりの中です。そして実際、大きな光のトンネルが遥か彼方に伸び、その中
    心には月が浮かんでいます。そしてそれに対抗するかのように、キールマンたち
    が灯す松明(たいまつ)の明るいオレンジや黄色の炎が、私たちの目を捉えます。
    最近になって、ナショナル・ギャラリーの修復室で、作品の汚れが取り除かれた
    のですが、その結果、色調の大きな変化が見られました。修復以前の絵は、いく
    つもの層が変色して黄ばんでおり、その黄色が、もともと塗られていた白や青の
    絵の具と混ざって、緑がかった、一種オーラのようなものでした。それは月や太
    陽はおろか、どんな光の類にも見えませんでした。修復作業が完了した今、ター
    ナーが長年にわたって探究していた、神秘的で、幽玄な青白く光る月明かりが復
    活しました。

    NARRATOR
    この作品の制作を依頼したイギリスの織物業者が、この作品と対を成すもう一枚
    の絵を依頼しています。それは太陽がさんさんと降り注ぐ『Venice, the Dogana
    and San Giorgio Maggiore ヴェニス、ドガナとサン・ジョルジオ・マッジオー
    レ』という作品で、通常は当ギャラリーでご覧いただくことができます。

    FRANKLIN KELLY
    ターナーのような手法で描かれた作品の修復には、いつも大きな危険が伴います。
    ほんの些細なミスで、何かが変わってしまうこともあるからです。ですから、こ
    の絵を修復室で、適切な処理を施すためには、細心の注意が必要でした。修復は、
    修復師や私のようなキュレーターと他のスタッフたちとの共同作業で行われます
    が、最初のステップは、この絵がどうして今日のような状態になったかを解明す
    ることでした。
    例えばこの『Keelmen』の絵の場合、下の方に、水面に反射する月の光が描かれ
    ていますが、ターナーはここに、絵の具を非常に厚く塗っています。一方、遠く
    の船やマスト、右手後方の帆船などは大変薄塗りで、半透明に近く、まるで水彩
    画のようです。つまり、ターナーは、繊細で、多種多様なテクニックを駆使する
    ことで、こうした効果を出しているわけです。こういった作品を扱う場合、決ま
    ったやり方というものはありません。

  • Stop 222

    Paul Cezanne, Boy in a Red Waistcoat, 1888-1890
    Boy in a Red Waistcoat

    ミケランジェロ・ディ・ローサという名前のイタリアの少年を描いたこの作品は、セザンヌが1888~90年に制作した 、同じモデルを描いた4つの作品のうちの一つです。それぞれの作品で、モデルの少年は同じ派手な赤いベストを着ており、 抑えた色調の構図に印象的なアクセントを添えています。大胆な筆遣いや陰影のないスタイルは作品に現代的な印象を与える一方で、少年のぼんやりと物思いにふける表情や、腰を傾け片足に重心を置き、片腕を曲げて腰に手を置いた優雅なポーズは、セザンヌが傾倒したイタリア・ルネッサンスの画家による肖像を思わせ、意図的な時代を超えた魅力を作品に添えています。

    Read full audio transcript

    NARRATOR
    ヨーロッパ絵画部門シニア・キュレーター、フィリップ・コニスビーです。

    PHILIP CONISBEE
    1888 年から1890 年にかけてパリを訪れたセザンヌは、『Boy in a Red
    Waistcoat 赤いジャケットを着た少年』を描くために、若いイタリア人をモデル
    として雇います。この男性は、芸術家たちのあいだではプロのモデルでした。こ
    のみごとなフォルムと色彩の演習には、イスの輪郭や、少年、そしてバックに描
    かれたカーテンの丁寧な描写、そして全体に広がる、さまざまな角度の曲線がリ
    ズムを生み出しています。少年のベストの数種類の赤は、他の部分の青や緑や黄
    土色の筆跡(ふであと)とコントラストを成し、みごとな調和をかもし出してい
    ます。そこにはまた、味わいのある深い明暗が生み出されています。
    この作品を見て、歴史家のマイヤー・シャピロは、「セザンヌの絵は、印象的な、
    あるいは美しいオプジェを忠実に描く旧式のスタイルの絵画と、特定のオブジェ
    を表すことなく感動的なハーモニーと色のタッチで表現する現代抽象画の間に位
    置する」と述べています。しかしながら、この絵では、少年が大きな存在感を持
    っていることは否定できません。少年の姿には、ジャケットの鮮やかな赤色にも
    かかわらず、ある種の哀愁感が漂っています。豊かな色合いをたたえた筆跡の優
    美なパッチワークを特徴とするこの作品と、セザンヌの父を描いた大肖像画を見
    比べるのも、また面白いかもしれません。この父の肖像画も当ギャラリーに展示
    されています。
    この、絵の具をたっぷり使った、重厚なタッチの父の肖像画は、『Boy in a Red
    Waistcoat 赤いジャケットを着た少年』よりも約25 年前に制作されました。色
    使いはともかく、マネの作品に見られるような、大胆な明暗のコントラストを特
    徴としています。そして若き芸術家の人生を多少なりとも圧制した、セザンヌの
    父親の強い人格が、この作品からうかがうことができます。

  • Stop 195

    Paul Gauguin, Self-Portrait, 1889
    Self-Portrait

    フランスのブルターニュ地方にあるル・プルドゥ村の旅館の食堂に置かれた食器棚の扉に描かれたこの自画像は、ポール・ゴーギャンの最も有名で急進的な油彩の一つです。頭上に光輪をかざした顔や体のない右手、指にはさまれた蛇などが、不定形の黄色と赤の空間に浮かんでいます。ここに描かれた極端に相反する要素が醸し出す皮肉が、この絵に風刺画的な性質を与えています。ゴーギャンの友人はこの作品について、意地の悪い性格描写と呼びました。

    Read full audio transcript

    NARRATOR
    1883 年、35 歳だったポール・ゴーギャンは、株式仲買人の仕事を辞めて画業に
    専念します。そして、1880 年代の最も革新的で重要な芸術家の一人となったの
    でした。印象派の画法を試した後、彼はその自然界への関心を急速に発展させ、
    単純あるいは想像的な形式と表現スタイルで、さらに奥深い真実を模索する道へ
    と進んでいきます。そうした新しいゴーギャンの画法は、それまでの画壇にはま
    ったく見られなかったものでした。
    印象派の作品とは対照的に、この自画像には、あらゆる要素に潜在的な意味が込
    められていると言っていいでしょう。赤と黄色の派手なバックグラウンドに対し、
    ゴーギャンは自分自身を、リンゴや光の輪、そして単純化された植物のつる、あ
    るいは葉の飾りとともに描いています。手にはヘビを握っています。
    フィリップ・コニスビーです。

    PHILIP CONISBEE
    この絵に象徴されているものは、一目瞭然です。リンゴとヘビは、エデンの園や
    誘惑、罪、そして人間の過ちを表しています。その一方で、光の輪は、大いなる
    人間愛を暗示していると言えるでしょう。つまり、ゴーギャンは自分自身を、聖
    人と同時に罪びととも見なしているのです。明確な境界線で分かれた、広範囲に
    およぶ均一な色彩のバックグラウンドには、日本の版画とクロワゾニスムの影響
    が見られます。クロワゾニスムとは、素地(そじ)に使われる銅によってうわぐ
    すりの色彩の輪郭を描き出す、中世の七宝焼クロイゾネを語源とする美術用語で
    す。作品の中央に浮遊するかのように描かれたゴーギャンの顔は、象徴主義の画
    家たちが繰り返し用いるモチーフです。この一派の画家たちは、言葉にできない
    雰囲気や感情を創り出そうと励んでいました。
    この絵の形式は単純なものです。ゴーギャンの髪は平面的で、まるで古代エジプ
    トのファラオのカツラのように見えます。また、様式化された植物は、古代エジ
    プトの葉をほうふつとさせます。ゴーギャンの顔の両側に見られる黄色の部分は、
    天使の翼にもたとえられますが、その意味は明らかではありません。あるいはも
    っと簡単に見れば、テーブルとか、大皿に頭をのせている光景として見ることも
    できるでしょう。

  • Stop 162

    Claude Monet, Rouen Cathedral, West Façade, 1894
    Rouen Cathedral, West Façade

    1892年2月、クロード・モネは大聖堂を描くために3回にわたって訪れたルーアンへの最初の取材旅行に出掛けます。そこで彼は大聖堂の向かいの部屋を借り、そこをアトリエとして連作を制作します。モネを魅了したのは大聖堂そのものではなく、変わることのないゴシック様式の建物が天気や時刻によって見せる微妙な変化を捉えるという挑戦でした。彼は2年近くの間に30点の作品を制作し、そのうち28点は西側入り口を描いています。ルーアン大聖堂の連作は1890年代に彼が描いた作品の中で最も野心的なものでした。

    Read full audio transcript

    NARRATOR
    この絵、そしてその隣の絵も、どちらもクロード・モネの作品であり、連作の一
    部です。1895 年、モネは、連作20 点を同時に展示しました。どれも、北フラン
    スにあるルーアン大聖堂のファサードを描いたものです。より明るい方の絵の真
    っ青な空は、これが多分、よく晴れた日の昼前に描かれたことを示しています。
    光があまりに強烈なため、ファサードはほとんど見えないほどです。やや暗い方
    の絵は、陽がかげる頃に描かれたものと思われ、暗い影が、建物の細部を覆って
    います。モネがこの大聖堂を選んだのは、宗教的な意味合いからではなく、光と
    空気の効果を記録するための、一定不変の対象としてでした。

    PHILIP CONISBEE
    これらの絵に見られるような光景を、実際に体験した人はいないと思います。と
    いうのも、ここに描かれた外側の実体は、モネが自分で見た印象を増幅したもの
    だからです。それは、印象主義における大きな問題でもありました。モネは明ら
    かに、光の効果を誇張しています。また、ある一定の形式を簡略化し、色使いに
    よってムードを創り上げています。これらは間違いなくアトリエの中で完成され
    た作品ですが、最後まで、自分は正確な視覚的印象をとらえるために、モチーフ
    を直接見ながら描いたのだという説を通し続けました。

    NARRATOR
    これら一連の作品を並べて見ると、光が明から暗へ、色がピンクから黄色、深緑、
    そして青へと移り変わるなかで、目の残像によるムードが沸きあがります。やが
    て、モネの最高傑作である『睡蓮』のシリーズへとつながっていきます。モネの
    『睡蓮』のシリーズは、息つく暇もない都会の喧騒から、逃がれられるような環
    境を創り出すという意図で制作されました。
    モネの連作についてさらにお聞きになるには、1621 を押してください。

    ほぼ同じ対象物を描く連作は、すべての作品を同時に見せることを意図して制作
    されています。この連作というアプローチは、美術の発展におけるモネの最大の
    功績の一つです。ある特定のモチーフが、一日のうちの異なる時間、あるいはさ
    まざまな環境条件の下で描かれています。モネが最初に選んだモチーフは干し草
    でした。そしてポプラの木、ルーアン大聖堂のファサードへと続いてゆきます。
    このルーアン大聖堂を、モネは1893 年から1894 年の冬のあいだに、実に30 作
    以上も描いています。何点もの作品を同時に進行させていたことが、今では明ら
    かになっています。光の変化に合わせ、次々にキャンバスに描かれていきました。
    その後、作品全部をアトリエに並べて完成させ、連作として全部を一斉に展示し
    ました。しかし連作をまとめて売ることについては、モネは決してこだわりませ
    んでした。

  • Stop 210

    Edouard Manet, The Old Musician, 1862
    The Old Musician

    この《老いた音楽家》で描かれているのは、大都市パリの社会の底辺で暮らす人々です。ぼろぼろの山高帽をかぶったくず拾い、ターバンをつけた男、赤ん坊を抱いた女の子を含む3人の子供たち、そして流しの音楽家が描かれています。その背景は、後にリトル・ポーランドと呼ばれるパリの外れのスラム街であることが分かっています。このような大きな作品の題材に、オスマン男爵により実施された都市改造で住まいを追われた人々を選んだことは、社会的な主張を感じさせます。しかし、曖昧とした場面設定や、互いに交流のない登場人物たちには従来の絵画作品に見られる物語性は感じられず、作品が真に意味するところは不透明なままです。

    Read full audio transcript

    NARRATOR
    エドゥアール・マネの記念碑的作品と言われる『The Old Musician 老いた音楽
    家』は、1862 年に描かれたもので、フランス政府が毎年主催する「サロン」に
    出品されました。サロンは保守的な審査員が選考をつとめる展覧会で、彼らは画
    家を成功させることも挫折させることもできました。サロンに出品される絵は、
    たいていは高尚で、感動的なテーマのものが多かったのですが、マネの絵はいず
    れも、当時のモダンなパリの裏町を題材としたものでした。また、ジプシーや旅
    芸人、現代で言うホームレスのような、その日暮らしで生きる人々などを描きま
    した。
    ヨーロッパ絵画のシニア・キュレーター、フィリップ・コニスビーです。

    PHILIP CONISBEE
    この作品には、絵そのもの、つまり作品の表面、筆さばき、絵のタッチに魅力を
    見出すことができます。例えば、画面左の少女がはいている青いスカート、ある
    いは、女性が抱いている赤ちゃん。また、隣にいる少年の、だぶだぶの袖の部分
    に注目してください。彼には大きすぎるシャツですね。こうした一連の描写は、
    マネの手法をよく表しており、彼が手本とした17 世紀のスペインの画家、ベラ
    スケスを想い起こさせます。ベラスケスは、絵画的な筆さばきや力強いハケづか
    いを得意とした巨匠でした。ベラスケスから受け継いだ光と影の強烈なコントラ
    スト、大胆で力強い筆づかいは、マネの革命的写実主義の際立った特徴となって
    います。

    NARRATOR
    こうした型にはまらない、精力的なアプローチを愛したマネは、伝統的なフラン
    ス・アカデミーの基準や画法から離脱しました。アカデミーの作品によく見られ
    るような控え目な色を使っているにもかかわらずマネの絵は、完成度に欠け、筆
    使いは奔放すぎて、アカデミーを満足させるには、筆跡が見えすぎるといつも批
    判されていました。そしてしばしば、明確なディテールがなさすぎるとも言われ
    ました。例えば、右にいるシルクハットの男性の顔は、ほとんど目鼻がありませ
    ん。マネにとっては、目に見える現実を盲目的に模倣するより、手法を実験する
    方が重要だったのです。マネがこの作品を初めて展示した時、小説家であり批評
    家でもあったエミール・ゾラは、次のように言いました。「マネの作品で重要な
    のは絵の対象ではなく、絵を描くという行為である」。つまり、絵を飾り立てた
    り、高尚なテーマを掲げるのではなく、絵そのもの、キャンバスの上で美しくあ
    やつられた絵の具が重要だったのです。こうした評論によって、ゾラはマネの最
    初の支持者となりました。しかしこの作品にはまた、明らかに社会記録という意
    図がありました。作家ゾラのマネに関する意見をお聞きになるには、1011 を押
    してください。

    ZOLA (ACTOR)
    誰も言わないから、私が言おう。屋根のてっぺんに立って宣言する。ム
    ッシュー・マネは未来の巨匠の一人に数えられることだろう。もし私が
    裕福な男だったら、いますぐ彼の作品をすべて買い上げて、堅実な投資
    をするところだ。ムッシュー・マネは、クールベと同じように、強く、
    そして妥協を許さぬ鋭敏な感性を持つ他の高名な画家たちのように、ル
    ーブル美術館にマネの場所が約束されることになるだろう。

  • Stop 662

    The Emperor Napoleon in His Study at the Tuileries

    フランス皇帝ナポレオンのこの力強い肖像画では、軍服を着たナポレオンが、ナポレオン法典の写しの置かれた机の前に立っています。背後の羽根ペンや机に無造作に置かれた紙、ほとんど燃え尽きたろうそく、午前4時13分を指す壁掛け時計などから、彼が新しい法典を書き上げるため夜を徹して作業したことがうかがえます。彼の軍事的な成功や行政手腕、そして民衆の幸福のため身を粉にして働いている様子を強調することで、画家ジャック・ルイ・ダヴィッドは皇帝権力の雄弁なイメージを作り上げています。

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    EARL POWELL
    書斎にいるナポレオンの威厳を描いたこの絵は、一見、写実的な肖像画に見えま
    す。しかし実際は、フランス絵画における新古典派の創始者、ジャック・ルイ・
    ダヴィッドによる政治プロパガンダであり、素晴らしい作品です。情熱的かつ政
    治的な画家であったダヴィッドは、18 世紀のフランス革命によって起こった社
    会変革をうまく利用しました。自分のかつての誠実なパトロンであったルイ16
    世の処刑には賛成票を入れ、革命後は、ナポレオンに献身しました。
    1804 年、ナポレオンが皇帝に即位した際、ダヴィッドは主任宮廷画家に指名さ
    れました。このち密な、等身大の肖像画は、隅々に至るまで、細心の注意で描か
    れています。皇帝ナポレオンは机のそばに立ち、気軽な感じで手をベストの中に
    入れています。これは、まだ紳士用のズボンにポケットがなかった時代、男性が
    リラックスしたときに見せる典型的なポーズでした。ナポレオンの身長は、5 フ
    ィート、つまり150cmをわずかに超える程度でしたが、ダヴィッドはそれを
    より高く見せました。まず、机の高さを実際より低く描(えが)き、背の高い置
    き時計や建築学的な壁の模様など、縦の線を加えることによって、見る者の視線
    を下から上へと導くようにしたのです。
    この絵には象徴的なディテールがたくさんあります。例えばこのイスは、ある皇
    帝の王座を原型としており、肘かけにはハチの紋章が付いています。ハチはかつ
    て、勤勉の象徴であり、先代の統治者たちを示唆しています。机の下にはプルタ
    ークの『英雄伝』の豪華装丁版が置かれています。ナポレオンをアレキサンダー
    大王やジュリアス・シーザーなど、古代の英雄と結び付けようとしたのでしょう。
    ナポレオン自身は、自分の偉業を古代ローマの偉人と同じか、それ以上のものと
    考えていました。彼が着ているのは、フランス軍エリート部隊の夜の正装です。
    胸の3 つの勲章が印象的ですが、その一つ、「レジオン・ドヌール勲章」は、ナ
    ポレオン自らが創設し、自分に授与したものです。ところが、ストッキングには
    しわがあり、髪の毛は乱れがち、無精髭も生えています。実はここにも、メッセ
    ージが込められているのです。
    注意深く見てみると、ろうそくの火は今にも消えそうで、時計の針は4 時13 分
    を指していることがわかります。これは、この絵を見る者に、ナポレオンが、民
    衆のために夜を徹して働いていることを悟らせるためです。恐らく机の上の『ナ
    ポレオン法典』を書いていたのでしょう。それはナポレオン最大の業績の一つで
    あり、フランス民法の原典となっています。この絵に政治的な意図があることは
    明らかですが、ダヴィッドは自然主義と理想主義をうまくブレンドすることに成
    功し、この作品を芸術的傑作にまで高めています。本作品についてナポレオンがどう感じていたかをお聞きになるには、6621 を押してください。

    EARL POWELL
    皇帝ナポレオンがダヴィッドの仕事場を訪れたのは一度だけです。しかもそれは、
    この肖像画が描かれる15 年も前でした。それでも、ダヴィッドは自分の題材を
    熟知しており、どうやって皇帝を喜ばせるかを知っていました。ナポレオンは次
    のように宣言したと言われます。「ダヴィッド、お前は私のことがよくわかって
    いる。私は、夜は市民の幸福のため、昼は彼らの栄光のために働いているのだ」。
    ナポレオンはダヴィッドの描写力を高く評価し、この記念すべき肖像画のもう一
    つのバージョンを制作するよう依頼しました。その絵は現在、ナポレオンの子孫
    が所有しています。

  • Stop 621

    Francisco Goya, The Marquesa de Pontejos, c. 1786
    The Marquesa de Pontejos

    この作品に見られる庭園という場面設定や公爵夫人のドレスにあしらわれたバラの花、優雅さを意識しながら手に持つカーネーションなどには、ジャン・ジャック・ルソーの著作に影響を受けた 18世紀の自然回帰への思想が表れています。美しくセットされた髪を縁取っている幅広の帽子はおそらくイギリスから輸入された高級品でしょう。作品の淡いトーンはスペイン絵画のロココ末期の特徴を反映していますが、全体に見られる銀色に近い灰緑の色調は、画家フランシスコ・デ・ゴヤが研究し模倣したスペイン絵画の巨匠ディエゴ・ベラスケスの作品を連想させます。

    Read full audio transcript

    NARRATOR
    これはスペインの画家、フランシスコ・デ・ゴヤが1786 年に描いた肖像画で、
    初期の作品です。シニア・キュレーターのフィリップ・コニスビーです。

    PHILIP CONISBEE
    この作品で目を引くのは、人物が全身でしかも等身大に描かれている点です。で
    すから、このきらびやかなモデルが誰かすぐにわかります。ポンテーホス侯爵夫
    人です。夫人はポルトガルに赴任していたスペイン大使と結婚しました。夫君は、
    スペイン王に仕える最高位の聖職者の兄弟でもありました。ですから、彼女はス
    ペイン上流社会のトップに上り詰めた女性です。右下にいる小さな可愛い犬は、
    彼女のペットのパグ犬です。

    NARRATOR
    パグ犬は、ヨーロッパ王室でとても人気のあった犬です。絵の中のパグ犬は、鈴
    のついたピンクのリボンをしています。それは、飼い主の腰に巻かれたピンク色
    とマッチしており、私たちの視線を、コルセットできつく締められた腰に向けさ
    せます。この絵はおそらく結婚記念のために描かれたものと思われます。夫人が
    24 才のときです。

    PHILIP CONISBEE
    彼女は、たしかに若く魅力的な女性として描かれていますが、やや堅い感じもし
    ます。しかしそれには、18 世紀後半のスペインにおける、上流階級の形式ばっ
    た生活が影響しているはずです。目を見張るような灰色のドレスには、真っ白の、
    きれいなリボンが付いています。またドレスのいたる所には、おそらく造花でし
    ょうがバラの花が縫い付けられています。バラは昔から愛のシンボルで、これが
    この絵が結婚式用に描かれたことを示唆しています。手に持っているカーネーシ
    ョンはまた、情熱と忠誠を意味する花でした。こうした手の込んだ衣装は、18
    世紀のフランス貴族、例えばマリー・アントワネットの衣装をほうふつさせます。
    今回モデルとなった侯爵夫人は恐らく、フランスのファッションや思想に大きな
    憧れを抱いていたのでしょう。

    NARRATOR
    1700 年以降、スペインは、フランス王室と親族関係にあるブルボン家によって
    支配されてきました。実際ゴヤは、ブルボン家のスペイン王カルロス4 世の宮廷
    画家に任命されています。その結果として、上流社会に気軽に出入りできるよう
    になりました。

    PHILIP CONISBEE
    ご覧のとおり、ゴヤは顔の部分を非常に緻密に描いています。明らかによく観察
    されたものです。それに比べてドレスは、より自由で、大胆な筆使いになってい
    ます。そのため、レースやチュールの、軽くてふわっとした感じがよく出ていま
    す。

    NARRATOR
    後ろの風景もまた、自由に描かれており、パステル調の色調が叙情的で、おとぎ
    話のような雰囲気をかもし出しています。

    PHILIP CONISBEE
    これはゴヤ初期の作品です。ゴヤと言えば、暗くて情熱的なムードを連想します
    が、この時期にはまだそこに到達してはいませんでした。

    NARRATOR
    当ギャラリーの別の展示室には、暗い背景と地味な色づかいの、ゴヤ後期の肖像
    画も展示されています。

  • Stop 542

    Hieronymus Bosch, Death and the Miser, c. 1485/1490
    Death and the Miser

    ヒエロニムス・ボスによるこの板絵は、死後の運命が決定される直前の守銭奴の、人生最後の瞬間を描いています。小さな悪魔がベッドを囲むカーテンの下から頭をのぞかせ、黄金の入った巾着袋を持って守銭奴をそそのかしています。一方右側ではひざまずいた天使が、窓に見える十字架を礼拝するよう促しています。左からは矢を持った死神が部屋に入ってこようとしています。場面全体を通して善と悪の対峙が描かれています。ベッドの天蓋の上の悪魔が持つ地獄の炎のランタンが、十字架から放たれている一条の聖なる光と対をなしています。

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    NARRATOR
    この、500 年前に制作された『Death and the Miser 守銭奴の死』として知られ
    る木製パネルの作品は、アメリカに現存する数少ないヒエロニムス・ボシュの作
    品の一点です。アルス・モリエンディ、つまり死の作法という伝統を踏まえて描
    かれたこの絵は、地獄行きを逃れるたった一つのチャンスを残された、一人の守
    銭奴の劇的な最期の瞬間を描写しています。キュレーターのジョン・ハンドがご
    説明します。

    JOHN HAND
    ご覧のように、守銭奴はベッドに横たわり、左のドアからは死神が入ってこよう
    としています。そして守銭奴はいま、左上の窓に掛けられた十字架を見上げ、そ
    れを崇めるべきかどうか、決断しなければなりません。天使は、神の救済を受け
    て罪滅ぼしをするよう、嘆願しています。一方では、小さな悪魔が、ベッドのカ
    ーテンから頭をのぞかせ、巾着袋を差し出しています。その中には恐らく、たく
    さんの金貨が詰まっているに違いありません。守銭奴は決断に迫られます。しか
    し彼は、上を向くでも下を向くでもなく、視線は死神の姿に釘付けになっていま
    す。ここにはしかし、このシーンがどういう結末を迎えるかの暗示が、ほかの部
    分にも描かれています。
    ベッドの足元の緑色の服をまとった人物をご覧ください。片方の手で箱の中に硬
    貨を投げ入れています。その箱の中には、ネズミの顔をした悪魔がいます。そし
    て、その人物のもう一方の手の指には、ロザリオが絡んでいます。彼は、神と金
    の盲者という2 つの役割を同時に演じているのです。前景の要素は、解釈がもっ
    と難しくなります。例えば、哀愁を漂よわせるようなポーズで敷居にもたれかか
    る小さな悪魔。さらには鎧兜(よろいかぶと)のようなものもあります。
    いまご覧になっているのは、ある祭壇画の外観の左袖部です。したがってその右
    袖部には、この前景のつづきが描かれていたに違いありません。しかし、それを
    見ることができないため、この絵を正確にはどう解釈すべきか、私たちにはわか
    りません。けれども、この守銭奴は多分天国には行かないであろうということは、
    ある程度はっきりわかります。

    NARRATOR
    この翼をつけた小さな悪魔は、ボシュの作品によく登場するキャラクターで、い
    わば彼のサインのようなものです。また、ベッドの上のほうにいる身を乗り出し、
    守銭奴を興味しんしんに見下ろしている毛むくじゃらの悪魔も見逃せなません。
    悪魔が持っているの、地獄の最初の小さなおみやげでしょうか。

  • Stop 250

    Rembrandt van Rijn, Self-Portrait, 1659
    Self-Portrait

    レンブラント・ファン・レインは、生涯にわたり絵画や素描、エッチングなど数多くの自画像を制作しました。それらの作品に描かれた変化を比べることによって、私たちは作品に込められた彼の気分の浮き沈みを想像することができます。レンブラントは、画家としての長年の成功にもかかわらず破産に追い込まれた後の1659年に、この自画像を制作しました。彼の広大な住まいやその他の財産はその前の年に債権者への支払いのため競売に掛けられました。この後期の作品では、鑑賞者の目をじっとのぞき込む落ちくぼんだ目に内面の強さと尊厳を感じることができます。

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    ARTHUR WHEELOCK
    この自画像はレンブラントが1659 年に描いたもので、亡くなる10 年前のことで
    した。当時、彼のキャリアはどん底にありました。画家として高い人気を博し、
    世界的な成功を収めたのちに破産を宣言し、所有物はすべて売却されていました。
    しかも、彼はまだ53 歳でした。自画像では、彼は一切の虚栄心を捨て、鏡の中
    に見たものをそのまま描写しているようです。深く刻まれたしわ、垂れ下がった
    頬、だんご鼻、暗く落ち窪んだ目…。しかし、視線はしっかりと定まり、その顔
    は威厳に満ちています。衣服の部分が暗いため、私たちの視線は自ずと光の中に
    浮かび上がる彼の顔に向かざるを得なくなります。それによって浮かび上がって
    くるものは、一人の画家の自己分析、自分自身を知ろうとするひたむきな努力で
    す。
    レンブラントの絵は一瞥するのではなく、じっくりと時間をかけて見なければな
    りません。この作品のように、画家が鑑賞者をまっすぐに見ているような作品は、
    特にその必要があります。ひとたびレンブラントの世界に入ると、彼の目に捕ら
    えられ、そこに縛られて、まるで本物の人物と対面しているかのように、そのイ
    メージの威力に引き込まれていきます。
    レンブラントは、作品の制作過程に、見る者を引き込むことによって、この薄気
    味悪い奇妙な効果を、達成しているといえます。例えば、目をよくご覧ください。
    絵の具があまりにも分厚く塗られているために、まるで実物のように見える部分
    があります。事実、このような絵はかつて、その極端な厚塗りのために、「鼻を
    つまんで持ち上げることができる」と言われたものでした。画家はまるで、絵の
    具で彫刻をしているようなものでした。しかし、この「インパスト」と呼ばれる
    絵の具のゴツゴツした塊のすぐそばには、薄く塗られた灰色がかった青の部分が
    見えます。これは、レンブラントがわざと残した下塗りです。そこには微妙なグ
    ラデーションなど存在しません。彼はただ、厚塗りから薄塗りへと跳躍し、私た
    ちは心の中でその変化を完了させます。この作品では、彼がほかにどのように絵
    の具を使ったかを見ることができます。例えば、髪の毛の明るい部分は、筆の尻
    で絵の具を引っ掻いて出した効果です。これを見ていると、絵の中のレンブラン
    トが、いまにも飛び出してきそうな感じがします。
    レンブラントのポートレート作品にはしばしば、深いしわが刻まれています。こ
    れまで人に教え、そして考えてきた人間の、ある種の知性を感じさせます。深い
    シワは見る者を引き込み、ドラマチックな光は視線を集めるということを、レン
    ブラントは知っていたのだと私は思います。ですから、インパスト、薄塗り、そ
    して凝視という3 つの異なる手法のすべてがこの絵に一つの意味をもたらし、私
    たちがそこに見たいもの、つまり、彼自身の失意の人生や、私たちが個人的に抱
    える疑惑、希望、悲しみといったものを見せてくれます。そしてこれこそが、レ
    ンブラントの最も優れた才能だったのではないでしょうか。

    何年もの間、この絵は汚れや変色したワニスに覆われ、暗く、茶色がかっていま
    した。そのため、洗浄して顔の部分のピンク色がよみがえった現在に比べると、
    人物は今よりずっと陰鬱に見えました。
    修復する前は、レンブラントの身体がほとんど見えませんでしたが、修復後は、
    彼が非常に古典的なポーズを取っていたことがわかります。一方の肩を前方に出
    し、頭は空間の中に退かせて、重みと信頼感を出しています。事実、このポーズ
    はラファエロの絵を参考にしたもので、レンブラントはこの自画像を手がける
    20 年前に、そのラファエロの絵を見てデッサンを描いています。そのプロセス
    は、心理的、感情的な素質を持つこの作品に、確固たる物理的基盤を与えている
    と言えます。

  • Stop 380

    El Greco (Domenikos Theotokopoulos), Laocoön, c. 1610/1614
    Laocoön

    トロイア戦争の神話で、策略を疑ったトロイアの神官ラオコーンは、ギリシャ軍が城外に残していった木馬を受けとらないよう人々に呼びかけ、中身が空洞であることを証明するために木馬に向かって槍を投げました。その行為は木馬が捧げられたアテナ女神への冒涜として神々の怒りを買います。ここには、怒った神々から遣わされた蛇と絶望的な戦いを繰り広げるラオコーンと息子のひとり、そして父の横に横たわる、すでに息絶えた2番目の息子が描かれています。右側の未完成の人物が誰かは分かっていません。くねくねとした線や青みがかった色調、非論理的な空間構図によって、エル・グレコは暗い破滅的な運命を表現しています。

    Read full audio transcript

    NARRATOR
    キュレーターのデヴィッド・ブラウンです。

    DAVID BROWN
    芸術家としてのエル・グレコは20 世紀において特に評価が高まっていると思い
    ますし、彼の秀作の多くがアメリカ、特にこのナショナル・ギャラリーに収蔵さ
    れていることも、不思議ではありません。グレコは、宗教的な人物や主題を偉大
    なエネルギーと情熱、そして精神性をもって描くすべを心得ており、その結果、
    現代の観衆が共鳴させられているのです。
    この『Laocoon ラオコオン』という作品は、非常にまれな、唯一の神話画です。

    NARRATOR
    ギリシャ神話では、トロイア市の神官ラオコオンが市民に、侵攻してきたギリシ
    ャ軍が残した木馬を受け取らないようにと警告します。しかしこの「たとえみや
    げを携(たずさえ)しとも、ギリシャ人を信ずるな」という名言は無視され、代
    わりにラオコオンは、木馬に槍を投げます。この絵の遠景、中央左寄りには、木
    馬が17 世紀スペインの町、トレドに向かって駆けていくのが見えますが、この
    町は、エル・グレコがトロイとして描いたものです。ラオコオンの行為は知恵の
    女神を怒らせます。その木馬は女神に捧げられたものだったからです。神たちは
    その復讐として、ラオコオンとその息子たちを殺すよう、大蛇に命じます。
    トロイア人たちはこの悲壮な結末を目撃し、市街を取り囲む城壁の中に木馬を持
    ち込むことにします。しかし夜になると、ギリシャ軍の兵士たちが木馬の腹の中
    から這い出し、トロイ人たちを圧倒して、トロイア戦争は終結します。

    DAVID BROWN
    このテーマを古典的に取り扱った偉大な彫像がバチカンにあり、エル・グレコは
    紛れもなく、その作品の存在を知っていました。しかし、彼を鼓舞させたのはそ
    の彫像の英雄的な力強さではありませんでした。グレコは異教をテーマとして取
    り上げておきながら、人物をまるでキリスト教の殉教者であるかのように表現し
    たのです。彼らはやせこけた生霊のような姿をしていますが、これはエル・グレ
    コが聖人を表すのに頻繁に用いた手法です。人物の背後には暗転する空が見えま
    す。この絵は異教の主題を取り扱ったものとはいえ、エル・グレコの深く、そし
    てほとんど光り輝くような精神性に満ちています。

    NARRATOR
    学者たちの間では、この未完成の人物たちについての議論がいまも続いています。
    アダムとイブか、あるいは、パリスとスパルタの美しい王妃、ヘレンかもしれま
    せん。パリスはトロイア戦争が始まったとき、ヘレンを略奪しています。それと
    も、彼らはこの恐ろしい処刑を見届けようとする神たちでしょうか。男の姿はギ
    リシャの太陽神アポロで、自分に仕えていたラオコオンが、神官としての純潔の
    契りを破ったことに憤激しています。
    その場合、エル・グレコはこの絵に一つの警告を託そうとした可能性があり、そ
    れは、1600 年代初頭のカトリック教会の厳格な教義に適っていると言えます。
    これらの人物が何者かについてはさまざまな見解があり、この絵の意味するとこ
    ろにも謎が残ります。しかし一つ明らかなことは、エル・グレコの色彩と形式と
    構図には、並外れた表現力が発揮されているということです。

  • Stop 532

    Matthias Grünewald, The Small Crucifixion, c. 1511/1520
    The Small Crucifixion

    背景の青緑色の空に縁取られ、謎めいた光に照らされたキリストのやせ衰えた体は、十字架の上で力なくぐったりしています。ねじれた手足、いばらの冠、苦悩の表情、 ぼろぼろの腰巻きは、彼が耐え抜いた壮絶な身体的・精神的苦痛を表しています。福音記者ヨハネ、聖母マリア、ひざをつくマグダラのマリアの苦痛に満ちた表情や説明的なしぐさは緊迫を高めています。マティアス・グリューネヴァルトの不調和で気味の悪い色使いは、場面の雰囲気に合っていると同時に、聖書の記述に基づくものです。例えば暗くたれ込めた空は、はりつけの際に「地上が闇に覆われた」というルカの福音書に従っているのです。

    Read full audio transcript

    JOHN HAND
    私は北方ルネサンス絵画部門のキュレーター、ジョン・ハンドです。いまご覧い
    ただいているのは、北アメリカで唯一のマティアス・グリューネヴァルトの作品、
    『Small Crucifixion 小さな磔刑』です。この作品はナショナル・ギャラリーの
    収蔵品中でも最も陰惨で痛ましい作品の一つであることは間違いありません。そ
    こには、十字架にはりつけられて死んだキリストが描かれ、その死体の重さのあ
    まり、十字架の横木はへの字に曲がっています。彼の身体は傷だらけで、殴られ
    た跡は変色しています。彼の左側には嘆き悲しむマリア、右側には福音書の著者
    ヨハネ、そして足元でひざまずくのはマグダラのマリアで、紫と青の服をまとっ
    ています。
    この絵の持つ感情的なインパクトこそ、グリューネヴァルトの天才たるゆえんで
    す。彼は16 世紀の最もすぐれた色彩画家で、この絵の色使いや陰影にはある種
    の辛らつさがあると言えます。また、ヨハネをご覧いただくと、その手と手首は
    なんとも不自然な角度に折り曲げられており、想像するだけでも痛々しいポーズ
    です。

    NARRATOR
    グリューネヴァルトは、奥深い精神的信仰を、絵画という形式で表現するにあた
    り、これらのグロテスクなイメージを、14 世紀の神秘主義者、スウェーデンの
    守護聖人ブリジッドから取っています。磔刑について、まるで彼女自身がそれを
    目撃したかのように述べており、キリストの肉体的苦痛の激しさを力説していま
    す。グリューネヴァルトはその残忍さを、キリストのずたずたに引き裂かれた腰
    巻や、頭上の重苦しい濃紺色、そして異常に神秘的で濃厚な空などによって強調
    しています。

    JOHN HAND
    右上の方をご覧いただくと、十字架の横木のすぐ上では日食が始まっています。
    この日食は、1502 年に実際に観測されており、グリューネヴァルトや一般のド
    イツ市民に、恐らく深い感銘を与えたものと思われます。もちろん聖書にも、磔
    刑のときには空が暗転したと書かれており、作品に描かれた空や日食はそれを反
    映しています。

  • Stop 315

    Giovanni Bellini and Titian, The Feast of the Gods, 1514/1529
    The Feast of the Gods

    この作品は、ローマ時代の詩人オウィディウスの『祭暦』に登場する場面を描いたものです。ユピテルやネプチューン、アポロをはじめとする神々が森の中で、ニンフやファウヌスたちとともに酒宴に興じています。右側では、生殖の神である好色なプリアポスが、眠っているニンフのロティスの着衣の裾をこっそり持ち上げています。物語では、彼のたくらみは次の瞬間、シーレーノスのロバのけたたましい鳴き声によって失敗に終わります。

    Read full audio transcript

    DAVID BROWN
    The Feast of the Gods 神々の祝宴(バッコス祭)』は、15 世紀ベネチアの画
    壇の長老であったジョヴァンニ・ベッリーニよって完成されました。ベッリーニ
    が80 歳の半ば、この世を去るわずか2 年前のことでした。右端の木の桶には、
    だまし絵のような一枚の紙切れが貼り付けてあり、彼の署名と、1514 という年
    号が書かれています。この絵の主題はバッコス祭で、一種の酒宴のようなもので
    す。
    ベリーニにとってそれは、彼の長い画家人生の一貫したテーマであった聖母マリ
    ア、聖人たち、そして肖像画からの革新的な離脱でした。しかし、このきわどい、
    神話的なテーマは、若い世代のルネサンス画家たちにとって非常に重要なものと
    なりました。若い世代の多くはベリーニの弟子でしたが、ベリーニがこのテーマ
    を取り上げるやいなや、彼は事実上、弟子たちのライバルとなったのです。ベリ
    ーニはバッコス祭をあえて自然の中でのピクニックとして表現しました。そこで
    はオリンポスの神々は飲んで食べて、酔いつぶれています。そのなかで、左側に
    みえるヘルメットをかぶったメルクリウスは、僕(しもべ)たちとともにくつろ
    いでいます。そのすぐ右にみえるのは、すべての神の支配者であるユピテルです。
    カタジロ鷲によって、それがユピテルだとわかります。
    この絵の中には、少々刺激的な瞬間が描かれています。例えば、右下の方をご覧
    いただくと、好色のプリアーポスが、眠れるニンフ、ローティスのガウンの裾を
    こっそりめくり上げようとしています。しかしそのとき、左端にいるロバのいな
    なきで全員が目を覚ましてしまったために、彼のたくらみは未遂に終わってしま
    います。その瞬間、プリアーポスは嘲笑の的となり、大恥をかいて逃げ出します
    が、彼を侮辱に導いたロバへの腹いせとして、毎年一頭のロバを生贄にするよう
    要求しました。年老いたベリーニは、この主題のエロチックな含みに、やや抵抗
    があったかもしれません。しかし絵が、かくも美しく描かれているため、主題そ
    のものは、ほとんど二の次となっているくらいです。ピンクや白、青、黄色、緑
    豊かな風景のこの荘厳たるシンフォニー、そして神々の足元に置かれた果物の鉢、
    彼らの頭を飾るさまざまな葉で飾られたかんむり、また、左の方に描かれている、
    樽から流れ落ちてガラスの水差しに注がれるぶどう酒など、うっとりするような
    静物描写に、私はこれまでに多くの鑑賞者が、思わず足を止め、嘆賞されている
    様子を見てきました。人々はこの絵の意味するところなどまったく気にせず、心
    から感嘆して去っていきます。
    さて、この絵の背景はあとで手が加えられています。ベリーニの原画では、いま
    右側に見える木々がキャンバスの端から端までを覆い尽くしていました。しかし
    何年も経ってから、彼の優秀な弟子であったティツィアーノは、何本もの木々を
    塗りつぶしてごつごつした岩山に描き変えており、それがいま、背景の左側に見
    えています。おそらく、当時この絵のそばに掛かっていた別の何点かの絵と調和
    させるために手を加えたと思われます。それらの絵のうちの3 点はティツィアー
    ノ自身によって描かれたものでした。ですから実は、この名作は、人物はベリー
    ニ、風景はティツィアーノによって描かれた、合作なのです。

    DAVID BULL
    1985 年、私はジョン・ウォーカーが発見したもろもろの事項を調査するため、
    この絵の洗浄作業に取りかかりました。当時のナショナル・ギャラリーの館長だ
    ったジョン・ウォーカーは1954 年、この作品に関する画期的な本を出版しまし
    た。その本には、1514 年にベリーニがこの絵を制作した際の、元々の構成を明
    かすX 線写真が掲載されており、それによると、人物の背後には3 本の木が連続
    して描かれていました。絵は19 世紀初頭以来洗浄されておらず、ほとんど透明
    感を失った薄茶色のワニスに覆われていました。ワニスを取り除くと、ベネチア
    絵画独特の豊かな色彩があらわになり、絵のディテールもよみがえりました。
    私が当初達した結論は、背景の変更は宮廷画家であったドッソ・ドッシによって
    加えられたものであるというものでした。ドッソの変更は、ティツィアーノによ
    って大部分が塗りつぶされましたが、右上の木にとまるキジとその周囲の明るい
    グリーンは残されました。ティツィアーノがなぜドッソの描いた部分をここだけ
    少しだけ残しておいたのかについては不明ですが、この絵の制作を依頼したフェ
    ラーラ公爵は大のキジ愛好家で、宮廷でキジを食することを禁じていたぐらいで
    す。ですから、公爵は絵の中のキジをそっとしておきたかったのか、あるいはも
    っと有力な説として、ティツィアーノはドッソの心情を傷つけないように気を遣
    ったのではないか、とも考えられています。
    ウォーカーは、ティツィアーノは人物にも17 箇所が変更された提唱しています
    が、X 線写真や赤外線写真、また、作品から採取したごく微量の絵の具によって、
    それは事実でないことが確認されました。顕微鏡では連続した絵の具の層を見分
    けることができ、14 層にも重ねられている部分もあれば、3 層だけの部分もあり
    ます。絵の具を分析し、情報を比較することによって、どの絵の具がどの画家の
    ものであったかを判別することができました。ワニスを取り除く作業には4 年半
    かかりましたが、私自身は25 歳も年を取ったように感じます。しかしその結果、
    最高の美をたたえる一枚の絵がここに生き返ったということを、皆さまにも認め
    ていただけると思います。

  • Stop 313

    Leonardo da Vinci, Ginevra de' Benci [obverse], c. 1474/1478
    Ginevra de' Benci [obverse]

    ジネーヴラ・デ・ベンチはフィレンツェの裕福な銀行家の娘でした。アメリカ両大陸に所在するダ・ビンチによる唯一の作品である彼女のこの肖像画は、彼女が16才で結婚する時に制作されたと考えられています。これは新しい画材である油彩を使用したダビンチの初期の実験的作品の一つです。女性の肖像画が通常、開いた窓からわずかに外の風景が見えるだけの実家の室内で描かれていた時代に、彼はここで彼女を広々とした屋外を背景に描いています。正面や横向きではなく、4分の3の角度で描かれているのも当時のイタリアの肖像画としては画期的でした。顔の周りのセイヨウネズの葉は、ルネッサンス時代の女性の最大の美徳である純潔を表すとともに、セイヨウネズはイタリア語でジネプロと呼ばれることから、彼女の名前をもじっています。

    Read full audio transcript

    DAVID BROWN
    『Ginevra de'Benci ジネーヴラ・ベンチの肖像 』はまさに名作ですが、その理
    由の一つにはその希少価値にあると言えます。私の知る限りでは、レオナルド・
    ダ・ビンチの絵画作品は全部で19 点しか存在しません。というもの、この天才
    は他の分野にこと忙しく、芸術にかける時間がほとんどなかったからなのです。

    この作品は、1974 年に私がナショナル・ギャラリーに就任して最初に取り扱っ
    た作品です。それまで単独で展示されていましたが、他のイタリア絵画作品と一
    緒に展示するために、4 人の護衛をつけて移転しました。1967 年に当館に収蔵さ
    れて以来、この作品は私たちが最も称賛するイタリア絵画となっていますが、そ
    れは極稀少な逸品であるばかりでなく、わずか22 歳のときに手がけたというも
    のですが、ダ・ビンチの発明への情熱、そして科学、テクノロジー、芸術への好
    奇心が、今日の私たちにもありありと伝わってくる作品なのです。この肖像は、
    フィレンチェの16歳の淑女の肖像画です。当時有力者メディチ家に雇われてい
    た、銀行家の令嬢でした。おそらく、二倍以上もの年上の、妻を亡くした男性の
    もとへ嫁ぐ間際に描かれたものでしょう。当時このような結婚は珍しくありませ
    んでした。
    それまで女性肖像画は、ふつう横顔でしたが、ダ・ビンチはその当時の流行であ
    った、四分の三の角度にジネーヴラを向かせました。顔の特徴やパーソナリティ
    までも、みごとに描写しています。また、初期の肖像画は卵を媒材とするテンペ
    ラ技法によって描かれていましたが、ダ・ビンチは、より流動性があり柔軟な、
    油絵の具を使用しています。油絵の具は、絶えず観察していた自然をとらえるの
    に最適でした。例えば、ジネーヴラの背後にあるエニシダの茂みをご覧ください。
    とげとげしい枝を細密に描き出していますが、濃く密集した部分もあれば、空が
    透けて見えるほどまばらな部分もあります。それらは彼女の頭部を際立たせ、私
    たちの視線を、実に精妙に描かれた顔へと惹きつけます。例えば彼女の唇の輪郭
    は、線ではなく、ほとんど見分けがつかないほど微妙な、象牙色から淡いバラ色
    への色調の変化だけで描かれています。そして波打ち、絡み合った巻き毛の驚く
    べき細かな点も、まさに天才にしか成し得ないわざであると言えましょう。ダ・
    ビンチにとって、細密描写は連続する自然の一部であり、それは遠くに霞む空や
    水に映った繊細な木々同様に描かれています。これはみごとな作品ではあります

    NARRATOR
    パネルの向こう側に回って、この絵画作品の裏側についての解説をお聞ききにな
    るには、3131 を押してください。

    この絵の裏側の、右上の角に見える赤いワックスの紋章は、この絵が200 年以上
    もリヒテンシュタイン王女の所有であったことを示しています。エルサ・メロ
    ン・ブルース基金が当館のために家族から購入したものですが、20 世紀におけ
    る蒐集活動で最も成功を収めた一例といえます。今日、この絵には王子の身代金
    ほどの値がついています。
    絵の裏側から、私たちはジネーヴラの人格を理解することができます。リースの
    左半分は月桂樹の枝で、彼女のアマチュア詩人としての成功を表しています。右
    側は椰子の葉で、これは敬虔(けいけん)さと美徳の象徴です。そして真ん中は
    エニシダの小枝ですが、イタリア語ではジネプロといい、ジネブラと語呂があっ
    ています。また、このジネプロというイタリア語のことばには、永遠の新緑とい
    う意味があり、若い花嫁にふさわしく純潔を象徴していました。実際、ジネーヴ
    ラの優しさと敬虔さ、気品と知性は、当時の人々に称賛されていました。枝々に
    絡まる巻物にはラテン語で「美は徳を飾る」と書かれており、この絵のテーマを
    集約しています。つまり、徳のあるものは美しく、美しいものには徳があるとい
    うルネサンスのコンセプトです。このような観念は、今日の人々には受け入れ難
    いかもしれませんが、この超越的な芸術作品を集約していることは間違いありま
    せん

    DAVID BROWN
    ダ・ビンチのこの肖像画は、作品自体すばらしいものですが、実は全体の一部分
    にすぎません。現在、この作品は正方形になっていますが、もともとはルネサン
    スの他の肖像画と同様、縦長の長方形でした。リースの下の方が切断されている
    事はこの絵が不完全であることを明らかに示唆しています。また、実際そジネー
    ブラの手の素描作品があります。この素描作品はエリザベス女王のコレクション
    の一つですが、最近私たちは、コンピューターの力を駆使することでウィンザー
    城に収蔵されているこの手の素描作品と、ワシントンにあるこの肖像画とを組み
    合わせ、ダ・ビンチの原画をデジタル画像として復元してみました

  • Stop 280

    Sir Peter Paul Rubens, Daniel in the Lions' Den, c. 1614/1616
    Daniel in the Lions' Den

    17世紀の偉大な巨匠の一人で敬虔なカトリック信者であるペーテル・パウル・ルーベンスは、リアリズムと舞台性を絶妙に組み合あわせることによって、見る者に力強い感情を引き起こします。この作品では、こちらをまっすぐ見つめる数頭のライオンが、まるでその場にいるかのように、そしてダニエルと同じ脅威を体験しているように鑑賞者に感じさせます。本物らしくほぼ等身大に描くことで、ルーベンスは臨場感を高めているのです。彼がブリュッセルの王立動物園で実際にライオンを観察し写生したことが、ライオンのまるで生きているような動きやその精緻な毛並みの表現から分かります。ドラマチックな雷やダニエルの祈りのポーズの誇張された情緒性は、現実味を高めています。

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    EARL POWELL
    ライオンの洞窟の中にいるダニエルが描かれたこの巨大なキャンバスは、フラン
    ドルの画家、ぺーテル・パウル・ルーベンスの作品です。このスケールやドラマ
    チックな主題には、ルーベンス自身の好みばかりでなく、作品に高額な報酬を支
    払ったカトリック教会のパトロンたちの趣味が反映されています。フランドルは
    当時、幾多の戦禍をくぐり抜け、混乱を極めていました。ダニエルの断固たる信
    仰は、ルーベンスの時代に広く支持されていた、どんな状況においても不平を言
    わない不屈の精神である、禁欲的哲学を示唆しています。

    NARRATOR
    この絵の場面を見えるのは何でしょう。ダニエルは、異教の神を信仰することを
    拒否したために、獰猛(どうもう)なライオンたちの棲む洞窟に投げ込まれてし
    まいます。しかし信仰は彼を救い、一夜を生き延びて、無傷のまま、いままさに
    洞窟を抜け出ようとしています。洞窟の入り口を塞いでいた岩は取り除かれ、神
    に感謝するダニエルに朝の光が注いでいます。彼は天を仰ぎ、両手の指を組み合
    わせて熱心に祈りを捧げます。そして彼の足のつま先に至るまで、すべての筋肉
    には緊張感があふれています。ダニエルを囲むライオンたちは、眠っていたり、
    起き上がっていたり、さまざまです。そして彼のすぐそばでは、一頭のライオン
    が大きな口をあけてあくびをしています。それとも、このライオンはうなってい
    るのでしょうか?ライオンの力強い舌は、朝日に輝く鋭い牙を引き立たせていま
    す。ダニエルの足元では巨大な獣がぐっすりと眠っていますが、右の方では、目
    を覚ました雄と雌のライオンが、威嚇するかのようにぐるぐると回り続けていま
    す。ここに描かれているライオンには、ブリュッセルの国王動物園に飼われてい
    たライオンを、ルーベンスがチョークで描いたスケッチがベースになっているも
    のもあります。

    EARL POWELL
    ナショナル・ギャラリーにも、これらのスケッチの一枚が収蔵されています。岩
    の上に立つライオンです。一方、右側の雌ライオンは、小さなブロンズ像をモデ
    ルにして描かれたものです。ルーベンスは当時イタリア旅行から帰ったばかりで、
    ルネサンスや古典的な彫刻にすっかり魅了されていました。

    NARRATOR
    ルーベンスは、洞窟の上部を、キャンバスのフレームからはみ出させるように描
    いており、私たちはまるでこの絵の中にいるような錯覚を起こします。このよう
    なドラマチックな手法は、バロック様式の顕著な特徴であり、感情的な思い入れ
    やダイナミックな動きが強調されています。私たちの目は、ほぼ実物大の獣たち
    を捉えつつ、絵の全体を見回します。この洞窟で息絶えた不幸な者たちの骨も目
    につきます。しかし、私たちの視線はいつも、たくましく生き延び、朝の光を浴
    びるダニエルに戻っていくのです。

    NARRATOR
    ぺーテル・パウル・ルーベンスは芸術的な天才であったばかりでなく、並外れた
    人格者で、言語学者、外交官、そして古典学者としても成功を収めていました。
    彼は17 世紀の北欧で最も認められた画家であり、事実、あまりにも依頼が多か
    ったために、作品の大部分を助手たちに描かせていました。また、依頼された作
    品の多くがこの作品と同じか、あるいは、さらにスケールの大きなものでした。
    当時の画家たちはよく助手を使っていました。ルーベンスはこの絵の購入を希望
    していたあるイギリスの貴族に宛てた書簡の中で、この絵はオリジナル作品であ
    り、完全に自分の手で描かれたものであるということを、きっぱり宣言していま
    す。

    NARRATOR
    1621 年、ルーベンスのアトリエを訪ねたデンマークの医者は、次のように回想
    しています。

    DANISH PHYSICIAN (ACTOR)
    我々は偉大な芸術家の製作風景を目にした。彼は絵を描きながらティツ
    ィアーノの散文を朗読させ、同時に手紙を口述して書き取らせている。
    我々が彼の邪魔にならないように静かにしていると、彼の方から我々に
    話しかけてきた。彼は絵を描きながら、朗読に耳を傾け、手紙を口述し、
    我々の質問にも答え、驚くべきパワーを見せつけてくれた。

  • Stop 470

    Georges de La Tour, The Repentant Magdalen, c. 1635/1640
    The Repentant Magdalen

    17世紀のカトリックの教えでは、マグダラのマリアは罪を悔い改める代表的な人物とされていました。彼女は最も献身的なイエス・キリストの信奉者の一人となり、イエスは彼女の過去の罪を赦しました。作品では、机に横向きに座るマリアの姿が描かれています。ろうそくの灯は、聖女の顔や机の上に置かれたものを黄金色に照らしていますが、その光には宗教的な意味が込められています。ろうそくの手前の陰になった左手は本の上の頭蓋骨に置かれ、鏡には頭蓋骨と本が映っています。頭蓋骨と鏡は虚栄の象徴であり、人生のはかなさを表しています。

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    NARRATOR
    聖書によれば、マグダラのマリアは罪深い女でしたが、世俗的な生き方を捨て、
    最も献身的なキリストの信奉者の一人となりました。この絵は17 世紀の画家、
    ジョルジュ・ド・ラ・トゥールによって描かれたもので、聖女マグダラが自らの
    過去を悔い改めている場面です。ヨーロッパ絵画部門シニア・キュレーター、フ
    ィリップ・コニスビーです。

    PHILIP CONISBEE
    絵の中のマリアは、白いシャツに黒っぽいスカートといった、とてもシンプルな服装を
    しています。簡素なテーブルにもたれ、本の上に置かれた頭がい骨に手をのせ、鏡をの
    ぞいています。鏡には頭がい骨が映っています。その後ろには、ゆらめくろうそくの灯
    り。これらはすべて、世のはかなさを象徴しています。つまり、肉体は一時的なもので
    あり、鏡の中の頭がい骨は一種の幻想をつくり出しています。ゆらめくろうそくの火は、
    信仰の光であると同時に、限りある命を暗示しています。
    この絵は、信じられないような雰囲気をかもし出しています。画面全体の半分は
    闇の中にあり、頭がい骨に隠れた小さなろうそくの火が、マグダラの沈痛な姿を
    照らしています。テーブルにもたれ、物思いに沈んだ姿勢で、夢でも見るように、
    自らの過去や真実の生き方、真実の光について、思いをめぐらせているのです。
    そして彼女には、真実の光、すなわちキリスト信者の光が、ろうそくの光の中に
    見えているのかもしれません。

    NARRATOR
    ラ・トゥールは、光をドラマチックに使う名匠(めいしょう)です。この絵のよ
    うに、ろうそくの光で照らされた光景が有名です。光と闇の強いコントラストが、
    情感的なインパクトを高めています。

    PHILIP CONISBEE
    この絵で最も明るい部分は、マグダラの袖です。ある意味でそれは、物思いにふ
    ける顔から私たちの注意を逸(そ)らせます。ラ・トゥールは恐らく、見る者に
    衝撃を与え、この絵は一体何なのだろうかと考えさせようとしたのかもしれませ
    ん。最初に目にとまるのは、ろうそくの灯と、その光に照ら

  • Stop 510

    Jan van Eyck, The Annunciation, c. 1434/1436
    The Annunciation

    当初トリプティック、つまり3つの部分で構成された作品の左側の部分だったと思われるこの作品は、ルカの福音書に記された受胎告知の場面を描いています。作品のあちこちに、宗教的なシンボリズムがちりばめられています。背景に見える教会上階の暗い壁とステンドグラスの窓は旧約聖書を表し、一方下の部分に並ぶ、三位一体を象徴する3連のガラス窓は、新約聖書を表しています。旧約から新約への移行という概念は、上階のロマネスク様式の円いアーチ窓とそれに続く下の階の初期ゴシック様式の尖頭アーチの窓にも見られます。

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    DAVID BROWN
    オランダの巨匠、ヤン・ファン・エイクの超名作、『Annunciation 受胎告知』
    は恐らく3 枚のパネルで構成された祭壇画の1枚であったはすです。そこには、
    受胎告知、すなわち、天使ガブリエルが処女マリアにキリストの受胎を告げ、精
    霊が鳩の姿になってマリアに舞い降りるという、キリスト教における重大なエピ
    ソードが描かれています。マリアは神の恩恵で満たされ、キリストは人間として
    の生を受けます。ガブリエルの隣にはルカ伝の「歓迎します、神の祝福に満たさ
    れた方」という挨拶が書かれています。聖なる侍女マリアの頭上に掲げられた返
    答は、天の神に見えるように、金色の文字で上下逆さに書かれています。
    ファン・エイクは、微笑む天使に豪華絢爛たる衣装をまとわせ、処女マリアの純
    潔さを引き立たせています。そしてこの作品は、何よりこの芸術家の卓越した才
    能にあるのです。ユリの花びらから天使の翼、王笏(おうしゃく)の水晶、そして前
    景に置かれたクッションのダマスクまで、油絵の具で描写されたオブジェは、超
    リアルで、すべてをみごとに画面に機能させています。ガブリエルの着物に織り
    込まれた金色は、実際には金箔ではなく少量の黄色に、きわめて細かな黒の線を
    交差させたものなのです。また豪華なベルベット地の起伏は、触れてみたくなる
    衝動にかられるほどです。この芸術家の技術が、ハイテク画像の氾濫する現代の
    私たちをここまで驚嘆させるのですから、写真すら見たこともない15 世紀の参
    拝者たちにとって、この絵はまさに奇跡であったに違いありません。見る者を圧
    倒するその複雑性、事実上すべての要素に高い象徴主義を含蓄した、探求的で濃
    厚な思想。知的観点からいっても高度な作品です。この作品は、当館の円形広間
    近くにあるマイクロギャラリーでも紹介されています。マイクロギャラリーでは、
    対話式コンピューター・プログラムによって細部を全画面に拡大して見ることが
    できるほか、ファン・エイクの遠近法を図解で学習したり、人物の描かれていな
    い画面がどのように見えるかなどを体験できます。

    DAVID BULL
    これはボルシェビキ革命の数年後、アンドリュー・メロン氏がレニングラードの
    エルミタージュ美術館から購入した21 点の絵画作品の一点で、1941 年ナショナ
    ル・ギャラリー開館時に寄贈されました。
    ロシア人たちは、ファン・エイクの作品のような木の板のパネルに描かれた作品
    は、極端な気候によって劣化する恐れがあるということを知っていましたので、
    パネルの絵をキャンバスに移すことにしました。もちろん、その作業は非常に繊
    細な技法を要し、うまくいかなければ絵を傷つけてしまう危険性もありました。
    この作業の最後の段階では、キャンバスの裏側にアイロンがかけられ、キャンバ
    スのざらざらした質感が、元々はエナメルのようになめらかだった絵の表面に型
    押しされてしまいました。このプロセスがもたらした惨事の一つです。ところが、
    それ以上の悲劇が起きたのです。
    ファン・エイクは、マリアの服の形と構成を決める下地として、グレーブルーの
    油絵の具を2 層に重ねました。それから、そのフォルムと影を引き立たせるため
    に、濃厚な青のウルトラマリンの絵の具を使いました。しかし悲劇が起こったの
    は、パネルからキャンバスへの移し替えの作業が終わり、絵の表面の保護材を除
    去したときでした。なんとそのとき、このウルトラマリンの光沢も一緒に洗い流
    されてしまったのです。処女マリアは、淡く灰色がかった青の下塗りのままで残
    されたため、驚くほどうまく保存されたガブリエルの鮮烈な印象に比べると、お
    ぼろげで生気のない、まるで亡霊のような姿になってしまいました。
    これにより、絵の構図は完全にバランスを失ってしまいました。そしてこのバラ
    ンスを取り戻すためには、青の光沢を再現しなければならないと、確信したので
    す。名作を相手にこのような決定を下すのは容易ではありません。絵画において、
    欠如したある小さな部分を修復するのと、大きな要素を再創作するのとでは、ま
    ったくわけがちがいます。幸い、赤外線写真のおかげで、私はファン・エイクの
    下絵、つまり、綿密に描かれたマリアの服のシワの一つ一つや影を確認すること
    ができ、原作に忠実でいられました。でなければ、この修復作業はまず実現不可
    能だったに違いありません。
    修復師と外科医の唯一の違いは、外科医はミスを隠すことができるということで
    す。この修復作業には何ヶ月もかかり、一筋縄ではいきませんでしたが、その成
    果はいまご覧の通りです。

    DAVID BULL
    移し替えの作業がどのように行われたかをご説明しましょう。まず、絵の表面に、
    何層かに重ねた紙を貼り付けます。これは絵を保護するためです。それから、絵
    の面を下にしてテーブルの上に寝かせ、のみとかんなを使って樫の木のパネルを
    注意深く切除し、ファン・エイクが絵を描き始める前にパネルに貼り付けた白い
    下地をむき出しにします。この下地は多分、少し水気を加えてこすり落としたの
    でしょう。この時点では、絵の具の層だけが表面を下にしてテーブルの上に寝か
    された格好になっています。次に、亜鉛系の接着剤を絵の具の層の裏側にブラシ
    で塗りつけ、その上にキャンバスを重ねてアイロンを当て、熱と圧力を加えて、
    絵の具とキャンバスを接着させます。最後に、木のストレッチャーでキャンバス
    を伸ばし、保護材を洗い流します。

    DAVID BROWN
    ファン・エイクの『Annunciation 受胎告知』はジェイムズ・ジョイスの『ユリ
    シーズ』のようなものです。ほとんど全てのものを、シンボル、つまり象徴とし
    て解釈することができるからです。ファン・エイクはこの絵の中で、旧約聖書と
    新約聖書の並列と対比を、いくつものシンボルを使って表しています。それは唯
    一の神から三位一体の神、つまり、父なる神と御子、そして聖霊への観念の移行
    です。
    それは教会の建築様式に最も顕著に表れています。天井付近のアーチは、より古
    いロマネスク、あるいはローマ様式を反映して丸みを帯びていますが、下の方で
    は、新しいゴシック様式を反映した尖頭(せんとう)アーチになっています。象
    徴主義は窓にもあらわれています。一番上の一枚の窓には、地球の上に立つ神の
    姿が描かれています。それとは対照的に、マリアの頭の後ろの三枚の窓は、キリ
    スト教の三位一体説を表しています。この象徴主義的手法は床の装飾にも及んで
    います。ご覧のように、正方形の中に描かれたシーンの間には、円の中に描かれ
    た星座のシンボルが散りばめられており、神は宇宙の万物を支配する、それには
    星の動きさえ含まれる、ということが暗示されています。正方形の中には、新約
    聖書の前兆としての旧約聖書のシーンが描かれています。例えは、一番下のシー
    ンは、若いヘブライ人のダビデが大男のゴリアスを殺すところで、キリストによ
    る悪魔征服の前兆を示しています。